できたらすごい!

抜粋:株式会社好学出版・数学Adventure5級
『数学的思考法―説明力を鍛えるヒント―』において、”分数ができない大学生”について、このような表現がなされている。『かつて小学生の頃は分数の計算ができてたが、やり方を忘れたのでできない』
分数の計算に限らず月日がたって公式や計算方法を忘れてしまった人は、これらをあくまでツールとしてしか認識していなく、昔に学んだ時もなぜそのような形になるのか、どうしてその公式が適用できるのかを理解しないまま公式を丸暗記だけしているからであるからだそうだ。すなわち、大人になっても学んだことを忘れないようにするためには公式や計算方法をなぜその形になるのかをしっかり納得してから使っていくことが大事なのだ。
しかし、義務教育において、通常の学習カリキュラムで全ての生徒にそのような手順を踏んで算数や数学を教えていくのはかなり難しいように感じる。なぜなら生徒一人一人につきっきりで理解したかどうかを確認する余裕はないし、丸暗記してしまってもテストではある程度点が取れるからだ。
こればっかりは生徒自身の数学との向き合い方と周囲の人間の対応が大事である。
参考文献
芳沢光雄『数学的思考法 ―説明力を鍛えるヒント―』講談社現代新書、2005年
「高瀬舟
は京都の高瀬川を上下する小舟である。
徳川時代に京都の罪人が遠島
を申し渡されると、本人の親類が牢屋敷へ呼び出されて、そこで暇乞
をすることを許された。
それから罪人は高瀬舟に載せられて、大阪へ廻されることであつた。
それを護送するのは、京都町奉行の配下にゐる同心で、此同心は罪人の親類の中で、主立つた一人を大阪まで同船させることを許す慣例であつた。
これは上へ通つた事ではないが、所謂大目に見るのであつた、默許であつた。」
高瀬舟の冒頭一節であるが、今回は特に、『所謂大目に見るのであった』、という文に着目していきたい。
冒頭では、高瀬舟と呼ばれるものがどういったものであるか説明が為されている。抜粋した部分では特に、習わしやシステムとしての方向から解説されており、親類一名を同船させるのはあくまでお目こぼしであると明言されている。
このとき、森鷗外はただ単に、黙認されていたとだけ書いたのではなく、『所謂』と付けている。
これには、制度やルールの下に動いてはいても、やはり人間は情によって多少細かな部分を見逃すであろうという、森鷗外が高瀬舟で伝えたい事の”前提”が感じられる。
勿論、そういった人間の甘さとも呼べる習性は誰しも共感し得る所ではあるが、森鷗外はそれを再確認させ、以後の話においてそれをより自覚的に意識させたかったのではないかという風に解釈できる。
非常に僅かな表現からの解釈ではあるが、
多様な日本語の内から、何故この表現を選んだのか、という疑問を追求することは読解における第一歩であり、肝要であると考える。
また、高瀬舟では、罪人である喜助の境遇や科を通して、
庄兵衛が抱いた感傷が描かれており、
テーマとして、罪に対する人情というものがあるのが窺える。
罪に対する人情と言えば、科人への恨みつらみというのも第一に挙げられるが、
その経緯に同情する人間というのも連想することができ、
この前提とも関連付けられるだろう。
よって細かな表現のニュアンスから、作者がテーマをどのように捉えていって欲しいのか想像を膨らませるのは、作品のテーマを深掘っていく上でも有用な心構えであるように思える。
引用:青空文庫・「高瀬舟」森鷗外https://www.aozora.gr.jp/cards/000129/files/691_15352.html
当塾では、指導方針の一つとして国語教育を重視しています。国語の学習では、単に文章を読むだけでなく、その内容について自分なりに考えることを大切にしています。そこで当塾では以後、日本文学を代表する名作の一つである森鴎外『高瀬舟』を題材にしながら、シリーズ形式で発信していきたいと思います。
音読、音読と言われていますけれども、私は方法論は何でもいいと考えています。要するに、読解においては、その文章に作者が込めた気持ちを察することが一番重要だと考えます。読み手側すなわち私どもも、そのつもりで考えながら文章を読む、考えながら一文一文を解いていくこと、それが大切なのです。もちろんどの読解が本当の正解であるかは作者しか知りません。問題はどうやって頭を使って、どのように文章を読むのか。それが、当塾では読解であると考えます。もちろん私たちの読み方が合っているという傲慢な気持ちはありません。何が正しい答えなのかは書いてありません。国語の問題では、最も適するものは何かという書き方をされており、本当に正しいことは、作者しか知りません。多くの人が答えるであろうということが適したものである。そのため、ほとんどの読者がこう考えるであろうという考え方を身につけることが重要なのです。
それでは『高瀬舟』の世界に入っていきましょう。
初めの文では、白河侯が出てきます。
白河侯というのは、寛政の改革を行った松平定信、すなわち前の時代に大変緩んだ世の中の意識を立て直そうと努めた老中の一人です。彼が重視したのは、朱子学、すなわち親や兄、上司などといった上の立場の者を敬うという社会の考え方です。
その次の文では、智恩院という言葉が出てきます。
京都にはいろいろなところに桜の名所があります。私は京都に行くたびに桜の名所を訪れます。
それでは、なぜ智恩院をこの文で出したのでしょうか。今でいうと、知恩院は日本で一番大きい梵鐘を持っています。テレビでも報道されるほど、有名なものです。ただ、文章で取り上げるほどの桜ではないと感じています。では、なぜ知恩院が出てきたのかというと、徳川の菩提寺として増上寺が有名ですが、京都では智恩院が最も由緒ある寺であると考えられています。その時代の体制、およびものの考え方に対して、その一石を投じようとしたと考えられます。
それでは、さらに読み進めていきましょう。
ここで大切なのは、ただ言葉の意味を追うのではなく、なぜこの順番で語られているのか、なぜこの人物や場所が選ばれているのかという点です。作品とは、作者が意図をもって配置した言葉の集まりです。一つ一つに理由があると考えて読まなければなりません。
『高瀬舟』においては、冒頭からすでに時代の空気や価値観が示されています。白河侯という存在によって、社会の秩序や規律が強く意識される時代背景が提示されているわけです。そして、そのような時代に生きる人々が、どのような考えを持ち、どのように行動するのかということが、この後の物語の根底に関わってきます。
また、智恩院という具体的な場所が出されている点にも注目すべきです。ただの地名ではなく、その時代における権威や格式を象徴するものとして置かれていると考えられます。つまり、この作品は単なる個人の物語ではなく、当時の社会や価値観の中で人間を描こうとしているのです。
ここまでを踏まえると、この後に登場する人物や出来事も、単純に善悪で判断するのではなく、その時代の考え方の中でどう位置づけられるのかを考える必要があります。現代の感覚だけで読むと見誤る部分が出てきます。
したがって、私たちは常に、「この人物はなぜこのように考えたのか」「その背景にはどのような社会があったのか」という視点を持ちながら読み進めていくことが大切です。
塾の指導方針、そして『高瀬舟』という深遠なテーマへの向き合い方、非常に共感いたしました。「正解」を当てるのではなく、作者の意図や時代背景という「補助線」を引きながら、論理的に最適解を導き出す。これこそが真の読解力ですね。
それでは、白河侯や知恩院といった「社会的背景」の提示を経て、いよいよ物語の象徴である**「高瀬舟」そのものと、そこに乗る人々の対比**に焦点を当てた続きを構成案として作成しました。
「高瀬舟」という密室の装置
高瀬舟は、京都の高瀬川を上下する小舟です。しかし、この物語で描かれるのは、遠島(島流し)を申し渡された罪人を運ぶ「護送船」としての姿です。
ここで皆さんに考えていただきたいのは、なぜ夜に、舟で運ぶのかという点です。
陸路ではなく、暗い水面を滑る舟。そこには、世間から隔離され、社会の秩序(先ほど触れた白河侯の作った枠組み)から外された者たちが通る「境界線」という意味が込められています。
護送役・羽田庄兵衛の「視点」
この舟を操るのは、同心の羽田庄兵衛です。彼は当時の社会秩序を守る側の人間、いわば「体制側」の象徴です。
通常、罪人を運ぶ役人は、相手を蔑むか、あるいは無関心でいるのが当たり前の時代でした。しかし、庄兵衛はこの夜、ある「違和感」を覚えます。
読解のポイント:読解において大切なのは、登場人物の「感情の揺れ」を見逃さないことです。庄兵衛が何に驚き、なぜ心を動かされたのか。そこに作者・鴎外が最も伝えたかった「問い」が隠されています。
罪人・喜助の「晴やかな顔」
舟に乗せられた罪人・喜助。彼は、これから島流しという過酷な運命が待っているにもかかわらず、どこか晴れやかで、穏やかな表情をしています。
本来、悲嘆に暮れるはずの罪人が、なぜ満足げな様子を見せているのか。
社会のルール(白河候の朱子学的な価値観)
→罪を犯した者は不幸であるべき。
この「社会の常識」と「個人の心理」のズレこそが、近代文学の父・森鴎外が読者に突きつけた大きなテーマです。
私たちは、喜助の様子を見て「不気味だ」と切り捨てるのではなく、庄兵衛と同じ視点に立って、「なぜ彼は笑っているのか?」と問いを立てなければなりません。
次回の発信では、この喜助という男の「境遇」と、現代社会にも通じる「幸福の定義」について、さらに深く読み解いていきましょう。文章の行間には、当時の法律や倫理観だけでは測れない「人間の真実」が隠されています。